今回ご紹介するのは、大船渡高校3年生の佐々木朗希投手です。
甲子園を目指して熱戦が繰り返されておりますが、強豪校が集う岩手県でも7月25日に決勝が行われました。
結果は、佐々木朗希選手擁する大船渡高校が、花巻東高校に負けてしまい、あと一歩のところで甲子園出場を逃してしまいました。
甲子園出場していれば、間違いなく注目ナンバーワンのピッチャーだったと思います。非常に残念です。
彼が注目された理由は、 160キロを超える豪速球にあります。
この160キロという球速は、同郷の大谷翔平(元花巻東高校)が高校時代に出した球速に並ぶ史上2人目の快挙ということです。
そんなことから佐々木選手は、『令和の怪物』、『大谷2世』などと評されています。それにしても岩手県からはいいピッチャーが育ちますよね。
そんな佐々木朗希選手の経歴、出身校、家族構成などを調べるとともに、その教育方法についても迫っていきたいと思います。
また甲子園出場を逃したことにより今後の彼の活躍の場についてもご紹介していきます。
佐々木朗希の出身校、戦歴と球速の推移
佐々木朗希選手の小学校は、小学3年生までは陸前高田市高田小学校で震災の影響により、大船渡市立猪川小学校へ転入しております。
この距離は、約20kmくらいのようです。
陸前高田市といえば震災で大きな影響を受けたところです。実は、この時お父さんの功太さん(当時37歳)を亡くされております。当時小学3年生の佐々木選手そしてご家族にとっては、大変な苦労があったと思います。
佐々木選手が野球のデビューとなったのはこの小学3年の頃で、高田スポーツ少年団に入団してました。
3歳年上の兄の影響を受けて、野球をはじめられたようです。
佐々木選手の素質に最初に気づかれたのは、お父さんの 功太さん でした。
『朗希はすごいよ』と常々言っていたようです。
中学校は大船渡市立第一中学校です。軟式野球部に所属し、地区の選抜チーム『オール気仙』にも選ばれました。
3年生時に(中学の軟式ボールから高校の硬式ボールになれるためのボール:KB)を使用するKB東北大会で準優勝を果たしております。
ここで技術の向上とともに、ともに汗を流したかけがえのない仲間ができます。
高校は、大船渡高等学校(偏差値52)です。
中学時代の活躍で、甲子園出場の常連校花巻東高校や大阪桐蔭高校からの誘いもあったようですが中学時代の仲間(オール気仙の仲間)と一緒に甲子園に行きたいという思いから、進学校の大船渡高校を受験されたようです。
早いうちにお父様を亡くされた佐々木選手にとっては、家族そして仲間とのつながりを一番大切にされていたようですね。
佐々木選手の球速の推移と大船渡高校の戦歴をまとめました。
時期 | 最高球速 | 大会 | 成績 |
中学三年生 | 141キロ | KB東北大会 | 準優勝 |
高校一年生 | 147キロ | 春季岩手大会 | 地区予選敗退 |
第99回全国選手権地方大会 | 対花巻南 3回戦敗退 | ||
秋季岩手大会 | 対盛岡中央 2回戦敗退 | ||
高校二年生 | 154キロ | 春季岩手大会 | 対盛岡中央 1回戦敗退 |
第100回全国選手権地方大会 | 対西和賀 3回戦敗退 | ||
秋季岩手大会 | 対盛岡大付 準決勝敗退 | ||
高校三年生 | 163キロ | 春季岩手県大会 |
対釜石 1回戦敗退 |
第101回全国選手権地方大会 | 準優勝 |
佐々木選手は高校一年生の夏、盛岡北との2回戦がデビュー戦となります。1点差の8回2死二、三塁から背番号20をつけてマウンドに立ちました。
いきなりこの試合で147キロを出しました。
高校三年時の、春季岩手大会では、佐々木投手がマウンドに上がることはなく1回戦敗退となりました。
また、甲子園を目指した 第101回全国選手権地方大会 の花巻東との決勝の舞台でも、佐々木投手はマウンドに上がりませんでした。
正直私は、この決勝の舞台に佐々木投手が先発して、強豪花巻東を破って甲子園を出場するという青写真を描いてました。
そして甲子園では”佐々木朗希”がトレンドとなり、このブログもPV急上昇という思惑があっただけに残念です。
決勝で佐々木投手がマウンドに上がらなかったのは、大船渡高校野球部国保監督の総合的な視点からの判断によるものです。
甲子園をかけた決勝戦の試合 < 佐々木選手の将来
という結論になったということだと思います。
4月に『骨密度検査』でまだ大人の骨でない(球速に耐えられる骨、筋肉、関節、じん帯でない)と診断されたことも判断材料の一つとなったのかもしれません。
佐々木朗希の家族構成と名前の読みと由来
『令和の怪物』または『大谷2世』とも呼ばれている佐々木朗希選手の家族構成はどうなっているでしょうか。
佐々木朗希選手は、母と兄と弟の4人家族です。
母は陽子さん。 夫の功太さんを亡くし、女手一つで3兄弟を育てられた肝っ玉母ちゃんです。
長男は琉希さん。3歳年上のお兄さんです。
お父さんが亡くなってから、父親代わりをつとめ、朗希さんには厳しく接していたようです。
お兄さんの 琉希さんは、自分が家族を支えていくという思いがあったのでしょう。
お兄さんも幼いころから、野球をやっており朗希さんと同じ大船渡高校出身で四番をつとめる活躍をされておりました。
もしかしたら、お兄さんが叶えられなかった大船渡高校での甲子園への夢を自分が果たしてやろうと思われたのかもしれませんね。
三男は怜希さんです。野球をやっていたかについての情報はありません。
佐々木選手の名付け親は、なんと兄の琉希さんです。
ろうき(朗希)とは、なんともよみづらく少し変わった名前ですね。
それもそのはず、この名前の由来は、幼いころ誰もが目にするスーパー戦隊シリーズで『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001年2月~2002年2月放送)の中で登場した、キャラクターの名前『狼鬼』(ろうき)からです。
2001年11月生まれの朗希選手ですから、ちょうど放送中ですね。幼き兄琉希さんが、『狼鬼』をかっこよく思たのでしょうね。
どことなく、黄金騎士 牙狼ーGARO(ガロ)に雰囲気が似ていてかっこいいですね。
引用:https://mamegyorai.jp
★プロフィール★
名前:佐々木朗希(ささきろうき)
生年月日:2001年11月3日
出身地:岩手県
身長:189㎝
体重:81キロ
最高速度:163キロ 右投右打
球種:ストレート・スライダー・フォーク
決め球:ストレート
佐々木朗希選手の育成方法と大船渡高校の原動力
名前の由来が珍しい佐々木朗希選手の育成方法とは?また変わった育てられ方をされていたのでしょうか。
母親の 陽子さんは、父親代わりになってくれた兄の琉希さんが厳しい分、朗希さんにはあまり干渉せずに自由奔放に育て、温かく見守っていられたようです。
兄の厳しい躾により、持ち前の”負けず嫌い”の性格に火がついて、お兄さんを超えてやろうと野球に没頭していったようです。
兄の琉希さんも、お父さんからは厳しく育てられたようです。
厳しさは、父親譲りというよりもそんな父親を演じていたのだと思います。
そんな兄により、強くたくましく育っていきました。
大船渡高校は、佐々木朗希選手を中心としたチームのようにも見えますが、甲子園を目指したこの夏の大会では、マウンドに上がらなかった試合もあり、チームメイトの総合力で決勝まで勝ち進んできたと思います。
チームメイトの総合力は、どこから生まれてきたのかと考えるとやはり佐々木朗希選手なのではないでしょうか。
チームの中に誰かひとりズバ抜けた選手がいた場合、『こいつがいれば甲子園にいけるかも』というモチベーションとなり、自ら努力しそのレベルに追いつこうとしてきたのだと思います。
実際、佐々木選手は、中学時代の仲間で甲子園に行きたいという思いから、花巻東を含む強豪校からの誘いをことわり大船渡高校へ仲間とともに進みました。
その仲間たちが『朗希に追いつこう』といった思いと、それに対し佐々木選手もチームの仲間を甲子園に連れて行きたいという思いこのふたつの思いが、大船渡高校の原動力になったと思います。
つぎの目標は世界制覇?とまとめ
甲子園出場の夢はかないませんでしたが、佐々木朗希選手には次の目標があります。
それは、U18ベースボールワールドカップで世界一を掴むことです。
第29回 WBSC U18ベースボールワールドカップ
期間:2019年8月30日~9月8日
開催地: 韓国(機張郡)
出場する国と地域 : グループA
韓国、オーストラリア、オランダ、カナダ、ニカラグア、中国
グループB
日本、アメリカ、チャイニーズ・タイペイ、パナマ、
南アフリカ、スペイン
引用: http://www.japan-baseball.jp/jp
今回の悔しさをバネに日本代表のエースとして大活躍されることを期待しております。
今後も、佐々木朗希選手に注目していきたいと思います。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。