NBAが開幕し、ワシントン・ウィザーズでルーキーながら大活躍の八村塁選手。
NBAを知ったのが中学時代。
そして、高校時代の活躍が八村塁選手をNBAへの道へ導い行きます。
そんな八村塁選手の中学・高校時代に迫っていくとともに、身長・成績についてもご紹介します。
八村塁(はちむらるい)
名前 | 八村塁(はちむら るい) |
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生年月日 | 1998年2月8日(26歳) |
出身地 | 富山県 |
身長 | 203㎝ |
体重 | 104.3㎏ |
所属チーム | ワシントン・ウィザーズ |
学歴 | 富山市立奥田中学校→明成高等学校(宮城県)→ゴンザガ大学(アメリカ) |
八村塁の中学はどこ?バスケは強豪校?
八村塁選手が住んでいた富山県は、日本の中での犯罪発生件数の少なさでトップクラスの県です。
また、防犯カメラの設置を積極的に行ってる、治安がとてもよいまちです。
そんな中で立地する、八村塁選手が通ってたのが、 富山市立奥田中学校 です。
2010年4月から2013年3月まで在籍しており、卒業生には八村選手の2つ上の先輩で、同じバスケット選手として活躍する馬場雄大選手(アルバルク東京)もいます。
富山県も含める北陸地方は、新潟県、石川県、福井県などバスケットボールの強豪校がひしめく地区で有名ですが、富山県はそれほど有名ではありませんでした。
そんな中で、奥田中学は八村選手の活躍で全国大会で2位という快挙を成し遂げました。
八村塁の中学時代の身長は?
八村塁選手のベナン人のお父さん(ザガリ・ジャビルさん)と日本人のお母さん(八村麻紀子さん)の間で生まれました。
小学6年ですでに身長170cmもありました。
中学2年の夏には180cmになったといわれています。
この高身長の理由は、お父さんがアフリカのベナン人だからなのでしょうか?
ベナン人の平均身長は、日本人の平均身長よりも低いようです。
一方、貧しい国ランキングでは、ベナンは上位30以内に入ってくる貧しい国です。
もしかしたら、十分な栄養を摂取することができずに、身長が伸びていない可能性もあります。
八村塁選手の現在の身長は204cm。
その理由は、生まれ育った環境もあるとは思いますが、ベナン人と日本人のハーフという他に類を見ない特別な存在であることも考えられるのではないでしょうか。
また、間違いなくベナン人(アフリカ人)の影響を受けているのは、八村塁選手のその身体能力です。
幼いころから、その体格と運動能力に恵まれていた八村選手。
小学校時代は、野球と陸上で活躍してました。
また、その活躍の一方で、心に悩みを抱えていたようです。
八村塁の中学時代の性格は?
その恵まれた体格と運動能力を持っていた八村塁選手。
中学に入学し、小学生の時の延長で、野球や陸上をやると思いきや、しばらくはどこの部活にも在籍してませんでいた。
それは
目立ちたくない
人前に出るのを避けたい
という理由からでした。
おとなしい控えめな性格だったようです。
また、現在の八村選手の受け答えを見ると、その真面目さや純粋さ(素直さみたいなもの)が伝わってきます。
中学時代も非常に真面目で素直な性格だったと思われます。
八村選手は、番組のインタビューの中で
日本人だったが、普通に肌の色とか、そういうところは気にしていた
小学校に入ると教室とか休み時間にみんなが見に来たり・・・そういうので嫌な思いをした
偏見あると思うんですけど、それは仕方ないと思いますし、人と違うところで戸惑うこともあるんですけど・・・
とコメントされています。
目立ちたくない、人前を避けたいという理由は、こんなところからきているようです。
八村塁の恩師、中学時代のバスケット部コーチとは?
八村塁選手の目立つ体格から既に八村選手の小学校時代から彼の存在に気づいていたのが、中学時代の恩師、バスケットボール部コーチの坂本穣治さんです。
坂本穣治コーチは、八村選手が4月に奥田中学に入学したのはわかっていました。
ある生徒に
『八村君はどうなっている』
と聞いたところ、
『どこにも入部してない』
という話から、それはまずいと考え
ある部員に
『(八村選手を)何が何でも連れてこい』と指令を出します。
そこから毎日八村選手へのしつこい勧誘が行われます。
そのしつこさ、根負けした八村選手。
最終的にバスケ部することになります。
これが八村選手のバスケット人生、さらにはNBAへのスタートラインとなります。
中学時代のコーチのひとことがあるから、今の八村塁がある!
バスケットボール部コーチ 坂本穣治コーチは、八村選手の悩みに気づいていました。
背が大きいとか肌の色とかで、
あの子はあの子なりに悩んでいるようにみえたこともあった
と語っておられます。
そこで八村選手へ次の言葉を投げかけます。
(バスケットボールは)ものすごく君が輝く
だから自信をもってやればいいんだ NBAに行け!
八村選手はその真面目さと素直さで、その一言を真剣に受け止めていました。
坂本穣治コーチ 曰く、
” ほかの生徒は、『コーチなに冗談を言っているんだ』と流されていた部分が多かったが、八村はそうじゃなかった”
と語られています。
コーチの『NBAに行け!』という言葉を真剣に受け止めた八村選手。
当時を振り返り
僕もNBAというのは聞いたことはあったんですけど
何もよくわからなかったので
僕もバカだったので『はーい』とか言って ずっとやってて・・・
毎日のようにNBAを見ていたようです。
さらに見た後は、次の日部活でマネしていました。
中学3年時には、身長180cmあったと八村選手。
NBA選手をマネてダンクシュートもできました。
バスケットボールが上手になっていくにつれ、どんどんバスケが好きになり、楽しくなっていったようです。
そしてバスケットボール(NBA)に勇気づけられていきます。
バスケというのはスポーツの中でもすごい黒人が多いスポーツで
黒人でデカくて そういうのがすごくカッコいいというのは
本当にカッコいい 憧れみたいなもの
これまで、自分の肌の色や体の大きさに、コンプレックスをもっていた八村選手ですが、NBAに出会ったことにより、そのことを逆にプラスにとらえられるようになったようです。
八村塁の高校、私立明成高校とは?なぜ富山から遠い仙台の高校へ?
八村塁選手が高校時代に通った私立明成高等学校についてと、なぜわざわざ八村選手の地元富山県から遠く離れた仙台の高校に行くことになったのでしょうか?
私立明成高等学校とは?
宮城県仙台市青葉区にある八村選手の母校、私立明成高等学校【偏差値39】
1879年に創設された宮城県では最も古い歴史を持つ高校のようです。
古い歴史をもつ高校ですが、バスケットボール部に関しては、創部2005年とその歴史は浅く、高校の歴史に比べれば、最近できた部であることがわかります。
八村塁は、なぜ富山から仙台の明成高校へ行ったのか?
八村塁選手は、なぜ地元の富山を離れ、遠い仙台の高校へ行ったのでしょうか?
高校野球もそうですが、地元では甲子園に行くことができないと考え、他県の高校へ行く学生もいます。
また、甲子園でのその先を見据え、他県の強豪校へ行くパターンもあります。
まず、八村選手の地元富山県の高校のバスケットの全国的な成績を見ていきます。
全国高校総体(インターハイ)での富山県の成績を第1回大会から見ていくと、1957年(第10回大会)で富山県立滑川高等学校が3位となっております。
それ以降の上位入賞はありませんでした。富山県の高校のバスケットボールについては、全国的にみると高くないようです。
一方、明成高校は2005年の創部ながら、2007年には3位、2010年には2位と八村選手が入学前でもその実績は全国レベルです。
八村塁選手が明成高校を選択した理由は、
八村選手が遠い宮城県の明成高校へ行ったのは、創部からわずかで全国レベルへ押し上げた監督の指導を受けたかった。
(将来のNBAへの道を開くため)自身の技術向上のため、富山県よりもバスケットのレベルの高い高校でやりたかった。
先のNBAを見据え、全国大会で優勝して目立ちたかったこと。
などがあると思われます。
私立明成高等学校のもう一つの特徴として、健康スポーツコースがあります。
運動部に所属し、専門とするスポーツの技術向上を中心に、勉学に励むことができるこのコースは八村選手にとってベストだったのかもしれません。
八村塁の高校時代のバスケットボール部の大会成績(高校総体・ウィンターカップ)は?
私立明成高等学校に進学した八村塁選手。(2013年4月~2016年3月在籍)
八村選手が入学前も全国レベルのバスケットボール部ですが、彼の入部により更なる好成績を残すことになります。
そして明成高校のバスケットボール部は私立最強と呼ばれるようになります。
筆者の時代は、元NBAプレーヤーの田伏勇太選手がいた能代工業高等学校が強い時代でいたが時代の流れを感じます。余談ですが、能代工業の7年連続の高校総体優勝を阻んだのが筆者の母校、新潟商業高校です。
八村塁の高校時代の大会成績
明成高校の八村選手がいた時の全国大会での成績です(高校総体とウインターカップ)
※ウインターカップとは、バレーボールなら、『春高バレー』サッカーなら『選手権』と同様の位置づけにある、高校バスケットボールの最高峰の大会です。
時期/学年 | 高校総体(インターハイ) | 時期/学年 | ウインターカップ |
2013年7-8月/高1 | 3位 | 2013年12月/高1 | 優勝 |
2014年8月/高2 | 2位 | 2014年12月/高2 | 優勝 |
2015年7-8月/高3 | 優勝 | 2015年12月/高3 | 優勝 |
高校1年生の時からレギュラーで活躍そていた八村選手。
高校総体(インターハイ)では、すべての学年で入賞を果たし、3年生の時には、念願の高校総体初優勝を果たします。
またウインターカップでは、すべての学年で優勝しております。
3年連続でウインターカップベスト5に選ばれ、八村選手の活躍で、ウインターカップ3連覇を成し遂げています。
※ベスト5とは、その大会最も活躍した5名が選出
八村選手か卒業後も、明成高校は、全国大会の強豪校として上位に名を連ねています。
八村塁のコーチ、佐藤久夫コーチがすごい!
2005年に創部された明成高校バスケットボール部。
その後2007年には、高校総体(インターハイ)で3位。
そして、創部から約10年で全国優勝させた監督とは如何なる人物なのでしょうか?
八村塁の高校3年間指導した佐藤久夫コーチの経歴
【1986年~2001年】
母校の仙台市立仙台高等学校でバスケットボール部の監督を務める。
●高校総体(インターハイ)
1996年:3位 1997年:3位 1998年:2位 1999年:3位 2000年:3位
●ウインターカップ
1991年:3位 1993年:3位 1995年:2位 1996年:3位 1997年:3位 1998年:3位 1999年:優勝 2000年:優勝
【2002年~2004年】
2002年に公立高校の教員を退職。日本協会強化本部の専任コーチを務める。
【2005年~】
私立明成高等学校の男子バスケットボール部監督に就任。
明成高校は、佐藤久夫監督が就任したと同時にバスケットボール部が創設されたようです。
佐藤監督のすごさは、仙台高校時代の実績にあります。
私立高校とは違って、地元の生徒が集まる公立高校。
特別背が高い生徒や優秀な生徒がいるわけでもない、ごく普通の高校生たちを2度の全国優勝(ウインターカップ)に導きました。
佐藤監督が育てた普通の高校生の象徴ともいうべき 志村雄彦 元バスケットボール選手。
身長は160㎝ながら、その運動能力に優れ 元U-18日本代表、大学時代はインカレMVP選手、仙台89ERSの顔と呼ばれる選手に成長されました。(現 仙台89ERS のゼネラルマネージャー)
志村選手は、高校時代には佐藤監督から、『 サイズの小さい選手は走らなきゃって・・』とよく言われていたようです。
久夫先生から学んだこと? それってすごく難しくて、正直、分からないのが答え。夢中になって久夫先生が引っ張ってくれたことに、ついていった3年間。久夫先生の言うことを必死に把握して、ついていけば優勝できると思った。その結果が(全国選抜優勝大会)優勝2回になった。たくさんのゲームをしたこともそうですし、毎回高いレベルを要求されました。練習は細かく指導されて、シュートやパスといった1つのプレーが1回できないと、もう1回ってね。緊張感がありましたね。僕がよく言われていたのはポイントガードはミスをしない、ということ。ミスをすると直接、失点につながるポジションですから。それは今のプレーでも頭に入れています。土台をつくってもらったのは久夫先生のバスケットですね。(志村雄彦さんのコメント)
引用元:日刊スポーツ
志村雄彦さんのこのコメントは、佐藤監督へのリスペクトとともに、佐藤監督の指導力が垣間見れる内容となっています。
佐藤監督は、明成高校がウインターカップで優勝した際に
『 誰でもができることをしっかりやれば、日本一になれる 』
とコメントされています。
練習ひとつひとつを妥協することなく真剣に取り組む監督、そして選手の姿が浮かんできます。
バスケが上手くなるために佐藤監督に指導してもらいたいと思っている男子学生はたくさんいるようです。
八村塁選手の弟 八村阿蓮選手も明成高校で佐藤監督から指導を受けました。
八村阿蓮選手は2019年にU22男子日本代表候補にも選ばれ、今後の活躍が期待される選手です。
八村塁からの電話でわかる佐藤 久夫コーチのすごさ!
八村塁選手がNBAのドラフト1位で指名をうけたその直後に、佐藤監督への電話がありました。
先生に感謝しています
佐藤監督のすごさが伝わる一言です。
八村選手の今は、佐藤監督との出会いがなければ、実現できなかったことでしょう。
佐藤監督の次なる目標は、”八村塁2世”を育てることのようです。
八村塁が日本代表、世界選手権(U17)の試合がNBAへの扉をひらく!英語力は?
八村塁選手のNBAへの扉は、高校時代に少し開かれます。
世界選手権(U17)の試合で大活躍!NCAA(全米大学体育協会)のスカウトマンが注目!!
2014年8月にUAEで開催されたU17世界選手権。
八村選手が高校2年生の時です。
ここで大会得点王という活躍が、アメリカのNCAA(全米大学体育協会)のスカウトマンの目に留まることになります。
そこまでは、NBAに行くことは漠然とした目的でした。
そこからは、”アメリカの大学に行ってバスケットをしたいと”思いようになり、行動にも変化が現われます。
八村塁の高校時代、苦手な英語の克服に挑む!その成長ぶりとは
高校3年生(18歳)になりアメリカ留学を決意した八村塁選手。
苦手な英語を克服するために、自ら英語の特訓を志願して猛勉強を始めます。
早朝の7時30分から学校で英語の勉強!
さらに昼休みも外国人の教師に英会話を習っていました。
また、語学堪能なご両親を持つ八村選手ですから、家庭でも英語の練習をして、苦手な英語の克服に挑んでいたに違いありません。
現在21歳の八村選手、アメリカで流暢にお話しされている姿は、18歳から英語の猛特訓を始めた人とは思えない成長ぶりです。
おそらくアメリカでの大学生活で自然と身についていったのだと思います。
八村選手がNBA選手になる前、大学のポジションごとの年間MVP賞を獲得した時のインタビュー。
八村塁選手の英語がすごいです。
大学生活では、バスケだけでなく、英語も必死に勉強されたのだと思われます。
映像の3:02くらいに母の八村麻紀子さんが映っています。
英語で、家族への感謝、中学のコーチなどへの感謝の言葉が述べられています。
八村塁の高校時代の身長の伸びは?
高校入学した時点での身長は、190cmあった身長は、高校3年間でさらに伸び続け高校3年の時点で199cmと2Mまであとわずかのとことまで来ました。
それに比例して足のサイズも34㎝となり、現在の足の大きさが出来上がりました。
この34cmという大きさ、筆者の地元、新潟出身のジャイアント馬場さんの足の大きさと同じサイズです。
ジャイアント馬場さんの身長は208cmです。
やはり長身の人は、足のサイズもけた外れの大きさです。
まとめ
八村塁選手の高校時代をご紹介いたしました。
中学時代そして、高校時代においても人とのつながりが、八村選手のその後の人生に大きな影響を与えているようです。
八村塁選手が自分の目指すべき場所、NBAを見つけたのが中学時代です。
そしてコーチのひとことがその道しるべとなりました。
高校へ進学し、新たなコーチとの出会いがあり、自分の成長とともにチームも成長していきました。
高校での活躍でU17日本代表メンバーに選出され、世界選手権での活躍でアメリカ留学することになりNBAへと導かれていきます。
八村塁選手の人生を覗いてみると、人とのつながり出会いの大切さがわかります。
中学時代からの夢をかなえた八村選手。
今度はどんな夢の実現を私たちにみせてくれるのでしょうか。
今後の活躍が非常に楽しみです。